Antonio Mairena。アントニオ・マイレーナ。本名Antonio Cruz García。(1909年9月7日-1983年9月5日)
傑出したカンタオールであり、失われた、あるいはほとんど消えかかっているフラメンコのカンテを採集し、保護することを試みた人物である。
またLlave de Oro del Canteの三番目の受賞者である。
一族[]
両親はヒターノのRafael Cruz VargasとAurora García Heredia。
兄弟姉妹は8人で、唄い手としてはFrancisco "Curro Mairena"、25歳年下の弟にManuel Mairenaがいる。ほかにÁguila、Juan、Rosario、María Josefa、Ángelesがいた[1]
父方の祖父はUtrera出身で鍛冶屋のAntonio Cruz Reyes、母はカディス県Bornos出身のCarlota Vargas Navarro[2]
またManolito de Maríaは従兄弟にあたる(父Rafaelの姉妹María Cruz Vargasの子にあたる)
バイオグラフィー[]
アントニオは1909年、9月7日、セビージャ県のMairena del Alcorで生まれる。幼いころから、家族を支えなければならなかったアントニオは鍛冶屋である父親と共に働いた。学校に通った期間はわずか三年間。アントニオはよく自分の読み書きの能力を嘆いていたという。
アントニオの家族でカンテをするのは祖父のAntonio Cruz Reyesのみで、母親は身内のフィエスタの時に踊りをする程度で、父親はフラメンコの一アフィシオナードだった。アントニオはこの父に連れられてヒターノのフィエスタを訪れた。父は偉大なアルティスタとも知り合いで、特にアントニオの師の一人であるManuel Torreとの出会いは父の引合せによる。アントニオが5歳の洗礼式の際にマヌエルがその日の夜に行われるフィエスタに出席するため、近くに来た時に父親がマヌエルに紹介したのだ。そしてアントニオはそのフィエスタで初めてマヌエルの唄を聴いたらしい。
1924年にConcurso de la Feria de Alcalá de Guadaíraにて当時14際のアントニオはseguiriya と soleáを唄って一等賞をJoaquín el de la Paulaから授与された。当初、El Niño de Rafaelという芸名で唄っていたがこの頃からNiño de Mairenaという名前で知られるようになる。
1928年ぐらいから家族を助けるために有名なArahalの食堂で働くようになる。母親が亡くなり、父親が新しい妻を迎えた後、カルモナに移り住む。この年から古いカンテの調査を始めるようになる。この時、Diego el de Brenesの協力でNitriとJuaneloのカンテの型を保護できた。
1933年になると様々なフィエスタで活躍するようになる。またアラメダ地区のセマナ・サンタでサエタを唄ったことによっても人々に知られるようになっていった。そういった中でVenta de AntequeraのフィエスタでCarmen Amayaを知り、そのカルメンの誘いによってバルセロナでMaría de la Oのための録音をする。基本的に踊りの伴唱を好んでいる感じがしないアントニオも、カルメン・アマジャの踊りのために唄うことは好んでいたらしく、アントニオによる著書「Confesiones」では「カルメンは情熱的で素晴しい踊り手だった。そして私が唄うと天才的に踊ってみせた。」と褒めちぎっている。
またこの頃から、セビージャ以外でも古い型のカンテを聴くためにUtrera, Jerez, Alcaláなどのフィエスタにも参加する。その古い型はフラメンコの純粋なエッセンスを内包しながらもすでに消えかかっているものだった(Joaquín Lacherna, Paco la Luz, Joaquín el de la Paula, Loco Mateo ,La Sernetaなどのカンテである)。アントニオは次第に古い時代のカンテとその復刻に関して興味を持ち始めたように思える。しかし、この興味により、経済的成功から遠ざけたと言える。アントニオはオペラフラメンカのような舞台には参加しなかった。あまり好きではなかったようだが、バイレの伴唱は払いが良かったため、Antonio el bailarinのカンテ伴唱をするようになる。
1936年にはギタリストのMelchor de Marchenaと知り合う。メルチョールとの出会いは大きな転換点となり、その後アントニオの活動の大きな助けとなる。
1941年に最初の録音をする。この時アントニオは32歳。プーロなものを録音しようと用意するも、スタジオLa Voz de Su Amoで4つのファンダンゴと4つのクプレを命じられる。この時の伴奏はEsteban Sanlúcarであった。
その後1950年ごろまで録音から離れるがMadridのColumbiaで録音をするようになる。この時もファンダンゴを唄うことになるも、その他にbulerías, alegrías, solearesとseguiriyaをひとつ録音する。伴奏はPaco Aguileraだった。
アントニオの人生の中でも最も大きなイベントとなったのが1962年の III Concurso de Córdobaだろう。アントニオはこのコンクールに招待されて、この場でアントニオはカンテの黄金の鍵を与えられた。アントニオが三代目の継承者となったのはアントニオが52歳の時であった。この時の審査員はRicardo Molina,Anselmo González Climent, Aurelio Sellés, Juan Talega, Francisco Salinasやクラシックの作曲家José Muñoz Molleda、Mauricio Ohanaなどであった。
1983年9月5日心筋梗塞で亡くなる。病院に運びこまれるも、すでに手の施し用がなかったそうだ。
評価[]
しばしば、オーソドックスで学術的であるとか、型にこだわりすぎているだとか、冷たいだとか、凝り固まったフラメンコ観が未来のフラメンコの発展の妨げになるだとか、ヒターノを尊重しすぎていてそれが民族への偏見につながるだとか、(これらの主張に関する正当性は議論の余地があるにしても)多くの批判的意見がある。
Manuel Moneo Lara のアントニオ・マイレーナ[]
Manuel Moneo Laraはアントニオの信奉者であるが、彼によれば子供の頃、祖父のPacoteが「テレモートもアグヘータもうまいが、アントニオ・マイレーナのシギリージャ、ソレア、トナとは較べられん。」などというのを聞いて、特別な目をアントニオに向けていた。
また、ある朝マヌエルが眼を覚ますとアントニオのトナが聴こえてきて思わず涙してしまったという。子どもたちが近寄ってきて心配されてしまったという。
「自分はアントニオ・マイレーナもマヌエル・トーレも両方好きだ。もちろんトーレを直接聴いたことはなかったけど、初めて聴いた時は震え上がってしまった。なぜならトーレのは全て素晴らしかった。そしてマイレーナはそれにしっかりと従っていった。今のヘレスではこんな感じじゃなくて、変なのが多い。なぜならみんなマイレーナをちゃんと聴いていない、マイレーナから学んでいないし、ソレアの音一つ一つ全てまで聴いてないんだ。こんな奴ら理解できんわい。」と述べている。
Manuel Agujeta[]
マヌエルは短く、「Mairena、Juan Talega、Manuel TorreとLa Niña de los Peinesは本当の偉人で、その他のはそれに影響されただけ。」としている。
逸話[]
- フランコ政権時代の前期にアントニオのいる宿にファランへ党に唄ってもらうために呼びつけられて、若い地元の有力者たちの前に連れ出された。時刻はほとんど夜明けだったが一人がピストルを取り出し、テーブルの上に置いて、「"El Cara al Sol"をブレリアで唱え」と命じたとされる。当時はフラメンコに対する検閲や圧力が公的には無かったようだが、ファランへ党員による威圧的な行為があった例として伝えられている。
ディスコグラフィー[]
ほとんどの音源がアントニオ・マイレーナCD大全集全16巻として発売された。
全レコード[]
- Fiesta por bulerías y fandangos (1941年)
- Bulerías y fandangos (1941年)
- Disco de Tánger (1944年)
- Bulerías y soleares (1950年)
- Bulerías jerezanas y fandangos (1950)
- Alegrías y seguiriyas (1950)
- Bulerías y soleares (1950)
- Con Antonio y Carmen Rojas al baile (1952年)
- Disco de Londres (1954年)
- Cantes de Antonio Mairena (1958年)
- Sevilla cuna del cante flamenco (1959年)
- Cinco grabaciones en disco de amianto para uso personal de Antonio Mairena (1960年)
- Antología del cante flamenco y cante gitano dirigida por Antonio Mairena (1960)
- Duendes del cante de Triana (1963年)
- Noches de la Alameda (1963)
- Tango de Andalucía (1963)
- La llave de oro del cante flamenco (1964年)
- Cien años de cante gitano (1965年)
- La gran historia del cante gitano-andaluz (3LP) (1966年)
- Sevilla por bulerías (1967年)
- Festival de Cante Jondo Antonio Mairena (1967)
- Misa flamenca en Sevilla (1968年)
- Mi cante por saetas (1969年)
- Honores a la Niña de los Peines (1969)
- Mis recuerdos de Manuel Torre (1970年)
- La fragua de los Mairenas (1970)
- Cantes festeros de Antonio Mairena (1972年)
- Grandes estilos flamencos (1972)
- Antonio Mairena y el cante de Jerez (1972)
- Cantes de Cádiz y los Puertos (1973年)
- Triana, raíz del Cante (1973)
- Grabación de su participación en el Festival de la Unión (1974年)
- Esquema histórico del cante por siguiriyas y soleares (1976年)
- El calor de mis recuerdos (1983年)
曲種別の録音[]
アントニオが1941年から1983年の間、アルバム制作のために録音した曲種とその数は以下のようになる。
曲種 | 数 | 曲種 | 数 | 曲種 | 数 |
---|---|---|---|---|---|
Alegrías, Cantiñas y Romeras | 11 | Garrotín | 1 | Serranas | 2 |
Bulerías | 37 | Gilianas | 1 | Siguiriyas | 36 |
Caña | 2 | Granadinas | 1 | Soleares | 33 |
Caracoles | 1 | Livianas | 4 | Tangos | 10 |
Cartagenera | 1 | Malagueñas | 3 | Tanguillos | 2 |
Corridos gitanos | 1 | Mirabrás | 1 | Tarantos | 2 |
Debla, Martinetes y Tonás | 15 | Polo | 3 | Tientos | 7 |
Fandangos | 10 | Romance | 6 | Villancicos | 6 |
Farruca | 1 | Saetas | 6 |
出版物[]
Mundo y formas del cante flamenco(1971年 ※Ricardo Molinaとの共著)
Las Confesiones de Antonio Mairena(1976年)
参考資料:[]
http://es.wikipedia.org/wiki/Antonio_Mairena ウィキペディア。より正確な情報はこちらから。
脚注[]
- ↑ 2013年?まで妹のアンヘレスが存命であったようであるEl Periódico de Mairena
- ↑ この夫婦が結婚する前に、Antonioには後にNiña de los Peinesの母となるPastora Cruz Vargasとも結婚のはなしがあった。そもそもヒターノはいとこ結婚が多いので、Antonio "Cruz"とPastora "Cruz"はいとこ等親族であった可能性も考えられる。